原発の話は大事だけど、正直気にしている余裕はありません。
ここ何日かのニュースを見ていると全国版では殆ど触れられることは無いですが、山形にも震災の影響が少なからず在りし事を知って頂きたい。と言う事で山形のガソリン事情をお話したいと思います。
震災後、16日より我が工場は稼動開始。電力供給の制限等のこの時世に如何なものかと思ってましたが、供給先が日野やコマツの重機関係のエンジン部品製造なのでどうやら何とか許可を取り生産を再開させたそうで、自分も16日より夜勤をしております。(シフト通常、残業アリ)
そこで問題になってきたのが、ガソリン問題ですね、山形は電車やバスの交通面では発達しておらず、もっぱら車がメインで車が無いと相当不便になります。
流通が麻痺している為、ガソリンやその他物資は一般に行き渡る事が難しく(宮城や福島等の太平洋側優先というのは当然ですよね)先ずガソリンの在庫が全て売れ、その後入荷しても購入制限がかけられてしまい(10㍑とか2千円分とか)どこもかしこもスタンドに入荷する情報が入ると長蛇の列を成しています。
私も本来なら節約をして自宅警備をして流通の回復を待ちたかったのですが、先述の通り通常出勤を余儀なくされてしまい片道12㌔程の道のりを行かねばなりませんので、ガリソンを消費してしまい17日の夜勤の帰り(18日早朝)にこのガソリン争奪戦に参戦せざるをえなくなりました。
この3月も折り返し、通常であれば春の足音が聞こえてこようものですが、大雪で早朝6時前で気温-6℃の中を列に並びエンジンを切って長蛇の列が動くのを凍える思いで、待ち続けていました。7時半頃になって友人からペットボトルに御湯を注いでタオルを巻いた物と缶珈琲が差し入れて頂いた時は「おぉ心の友よ~」ってなもんで真に有り難き幸せを感じた次第であります。
数えた感じでは自分で200台目程だと言われて自分は今日の供給量の内に入っているのか内心不安でしたが、8時過ぎ頃スタンドの店員が軽トラに終了の看板を付けて自分の脇を通り見えざる最後尾の方へ行ってしまったので、定員には入ったと思い、安堵しました。8時半頃になって列が動き始め、スタンドが見えて来た時には興奮していました。自分が給油したのは10時を過ぎていましたが、2千円分の約13㍑をなんとか積める事に成功しました!!!!
並んでる間何回もパトカーが巡回していました。後で人に聞いて見ると前日に割り込み等で喧嘩沙汰があり、その影響で巡回しているそうです。ガソリン買えなかった!って声や並んだけど店が開かなかったなんて声も聞かれます。皆限られたガソリンを必死で求めているのは理解できますが、割り込んだり、列を乱して停車したり怒鳴ったりそう言う事をしてまで給油したりしないで皆条件は一緒なのだから、譲り合い精神で行きましょう。
街では食料もそろそろ何処も無くなりつつあるので心配ですね、去年末に携帯糧食(非常食)を探した時に買っておかなかったのが悔やまれます。
やはりなんだかんだ言って基本的には自分の生活がある程度回復しないとまだ余裕はそれほどありませんね。精神修行が足りないのかもしれません、まだまだ弱いですね。自分達より(奥羽山脈)山一つ隔てた先には帰る家も無く非難しておられる方々も居ると言うのに・・・
一日も早い復興をお祈りしております。
ここ何日かのニュースを見ていると全国版では殆ど触れられることは無いですが、山形にも震災の影響が少なからず在りし事を知って頂きたい。と言う事で山形のガソリン事情をお話したいと思います。
震災後、16日より我が工場は稼動開始。電力供給の制限等のこの時世に如何なものかと思ってましたが、供給先が日野やコマツの重機関係のエンジン部品製造なのでどうやら何とか許可を取り生産を再開させたそうで、自分も16日より夜勤をしております。(シフト通常、残業アリ)
そこで問題になってきたのが、ガソリン問題ですね、山形は電車やバスの交通面では発達しておらず、もっぱら車がメインで車が無いと相当不便になります。
流通が麻痺している為、ガソリンやその他物資は一般に行き渡る事が難しく(宮城や福島等の太平洋側優先というのは当然ですよね)先ずガソリンの在庫が全て売れ、その後入荷しても購入制限がかけられてしまい(10㍑とか2千円分とか)どこもかしこもスタンドに入荷する情報が入ると長蛇の列を成しています。
私も本来なら節約をして自宅警備をして流通の回復を待ちたかったのですが、先述の通り通常出勤を余儀なくされてしまい片道12㌔程の道のりを行かねばなりませんので、ガリソンを消費してしまい17日の夜勤の帰り(18日早朝)にこのガソリン争奪戦に参戦せざるをえなくなりました。
この3月も折り返し、通常であれば春の足音が聞こえてこようものですが、大雪で早朝6時前で気温-6℃の中を列に並びエンジンを切って長蛇の列が動くのを凍える思いで、待ち続けていました。7時半頃になって友人からペットボトルに御湯を注いでタオルを巻いた物と缶珈琲が差し入れて頂いた時は「おぉ心の友よ~」ってなもんで真に有り難き幸せを感じた次第であります。
数えた感じでは自分で200台目程だと言われて自分は今日の供給量の内に入っているのか内心不安でしたが、8時過ぎ頃スタンドの店員が軽トラに終了の看板を付けて自分の脇を通り見えざる最後尾の方へ行ってしまったので、定員には入ったと思い、安堵しました。8時半頃になって列が動き始め、スタンドが見えて来た時には興奮していました。自分が給油したのは10時を過ぎていましたが、2千円分の約13㍑をなんとか積める事に成功しました!!!!
並んでる間何回もパトカーが巡回していました。後で人に聞いて見ると前日に割り込み等で喧嘩沙汰があり、その影響で巡回しているそうです。ガソリン買えなかった!って声や並んだけど店が開かなかったなんて声も聞かれます。皆限られたガソリンを必死で求めているのは理解できますが、割り込んだり、列を乱して停車したり怒鳴ったりそう言う事をしてまで給油したりしないで皆条件は一緒なのだから、譲り合い精神で行きましょう。
街では食料もそろそろ何処も無くなりつつあるので心配ですね、去年末に携帯糧食(非常食)を探した時に買っておかなかったのが悔やまれます。
やはりなんだかんだ言って基本的には自分の生活がある程度回復しないとまだ余裕はそれほどありませんね。精神修行が足りないのかもしれません、まだまだ弱いですね。自分達より(奥羽山脈)山一つ隔てた先には帰る家も無く非難しておられる方々も居ると言うのに・・・
一日も早い復興をお祈りしております。
ようやっと生活が安定してきたので、生存報告を兼ねましてこの地震での日々を記録しておこうと思います。
山形は他県に比べると被害(人的物的)は少ないので報道される事もほとんど無いですが、それでも日常が完全に取り戻せていないのが現状です。
3月11日
その日は日勤でした。3月なのに雪の吹雪く寒い日でした。何とも無く仕事をしていましたが、2時45分頃のその時会社で普通に仕事をしていた私は社内放送で警告を聞き、そのすぐ後に大きな地震に遭いました。大きな横揺れで何かに掴まらないと立ってはいられませんでした。揺れが一旦収まった所でTシャツ一枚で工場の外へ避難しました。外は吹雪きで震えながらあつまり、点呼を取り、その後食堂で待機となりました。その時はもう停電で工場内は真っ暗でした。
午後4時頃殆どの社員(派遣含む)が解散になり自宅へ向かう事になりました。が、信号機がすべて停電で消えており、車をおっかなびっくり走らせながら家路に着きました。家では電気を使わない石油ヒーターを引っ張り出し、暖を取りながらラジオで情報を集めながら、家族の安否、この時点で連絡が取れない妹を待っている状態でした。
午後6時過ぎになってようやく妹が帰って来ました。どうやらスーパーで買出しをしてくれていたみたいで、妹の旦那を呼んでランプの光で皆で食事をしてそれぞれの家に解散になりました。自分は近所の祖父母の家に住んで居るのでそこへ帰ると真っ暗な家で蝋燭を焚いていました。まだ午後9時位でしたがその日は酒を飲んですぐに寝ました。が、1時間に何回もくる余震、その何回かに一回は震度3以上の揺れで起されてしまい全然寝た気がしませんでした。おまけに寒くて(外気温ー2℃)布団を顔までかぶってました…
3月12日
鍋で炊いたご飯を食べて取り合えず出社するも点呼取っただけで解散になり、取り合えず市中を軽く見回ってから帰宅。市中では停電でも手売りで店を開けている所も点々とあり、そこには日用品や食料を求める人々が押し寄せていました。
自宅でラジオを聞いていると、午後3時位から電気が復旧してきているということで待っていましたが、同じ市内でも復旧するのに差があるようで、午後7時には酒を飲んでねてしまいました。夜10時頃の地震で目が覚めた時には電気が復旧していたので、すぐにヒーターをつけて暖をとりました。電気が無いと本当に夜は何もする事がなくて、寝ることしか出来なかったのですが、本当に電気の有り難味をしりました。
3月13日
久しぶりにまともな飯を食べて出勤。工場内の電気回復を待って点検して帰宅。そろそろガソリンが心もとないのでしたが、どこも売り切れ状態で断念しました。
流通が止まっているようで、食料やガソリンの供給が再開しないといつまでこの生活が続けられるのか分かりません。また計画停電の話も出てきているようで先行きは不安ばかりです。未だに続く余震。一日も早い復興を祈っております。
山形は他県に比べると被害(人的物的)は少ないので報道される事もほとんど無いですが、それでも日常が完全に取り戻せていないのが現状です。
3月11日
その日は日勤でした。3月なのに雪の吹雪く寒い日でした。何とも無く仕事をしていましたが、2時45分頃のその時会社で普通に仕事をしていた私は社内放送で警告を聞き、そのすぐ後に大きな地震に遭いました。大きな横揺れで何かに掴まらないと立ってはいられませんでした。揺れが一旦収まった所でTシャツ一枚で工場の外へ避難しました。外は吹雪きで震えながらあつまり、点呼を取り、その後食堂で待機となりました。その時はもう停電で工場内は真っ暗でした。
午後4時頃殆どの社員(派遣含む)が解散になり自宅へ向かう事になりました。が、信号機がすべて停電で消えており、車をおっかなびっくり走らせながら家路に着きました。家では電気を使わない石油ヒーターを引っ張り出し、暖を取りながらラジオで情報を集めながら、家族の安否、この時点で連絡が取れない妹を待っている状態でした。
午後6時過ぎになってようやく妹が帰って来ました。どうやらスーパーで買出しをしてくれていたみたいで、妹の旦那を呼んでランプの光で皆で食事をしてそれぞれの家に解散になりました。自分は近所の祖父母の家に住んで居るのでそこへ帰ると真っ暗な家で蝋燭を焚いていました。まだ午後9時位でしたがその日は酒を飲んですぐに寝ました。が、1時間に何回もくる余震、その何回かに一回は震度3以上の揺れで起されてしまい全然寝た気がしませんでした。おまけに寒くて(外気温ー2℃)布団を顔までかぶってました…
3月12日
鍋で炊いたご飯を食べて取り合えず出社するも点呼取っただけで解散になり、取り合えず市中を軽く見回ってから帰宅。市中では停電でも手売りで店を開けている所も点々とあり、そこには日用品や食料を求める人々が押し寄せていました。
自宅でラジオを聞いていると、午後3時位から電気が復旧してきているということで待っていましたが、同じ市内でも復旧するのに差があるようで、午後7時には酒を飲んでねてしまいました。夜10時頃の地震で目が覚めた時には電気が復旧していたので、すぐにヒーターをつけて暖をとりました。電気が無いと本当に夜は何もする事がなくて、寝ることしか出来なかったのですが、本当に電気の有り難味をしりました。
3月13日
久しぶりにまともな飯を食べて出勤。工場内の電気回復を待って点検して帰宅。そろそろガソリンが心もとないのでしたが、どこも売り切れ状態で断念しました。
流通が止まっているようで、食料やガソリンの供給が再開しないといつまでこの生活が続けられるのか分かりません。また計画停電の話も出てきているようで先行きは不安ばかりです。未だに続く余震。一日も早い復興を祈っております。